八幡山では「豊臣秀次」にも会えた。瑞龍寺にて。
豊臣秀次といえば?
天下を取った豊臣秀吉の甥っ子。いわゆる豊臣政権の「2代目」として関白を受け継いだ。
しかし、その後は、ご存じの方とも多いと思うが、政変等に巻き込まれ、悲劇の切腹をした人物である。しかもその後、一族処刑という何とも酷い、悲しい結末である。涙なしでは語ることのできない事件だ。
なぜ切腹したか?
なぜ一族処刑させられたか?
定説では、豊臣秀吉がボケたことが要因の1つと、もう1つは待望の息子「秀頼」が誕生したため、秀次ではなく、息子に権力を譲りたくなったことが要因と考えられている。
私としては「本当か?」と疑っている。
なぜ?というと、歴史の「解釈」は、勝者側によって良いように表現されるからだ。
これは、日本に限らず、中国などでもそうだが、新しい王朝になると、必ずといっていいほど「前王朝」のことは悪く表現されるのである。
「前の王は悪政を行っていた。だから、我々は天命を受けてそれらを滅ぼし、新しい国作りをしたのだ」と。
前の王や政権は悪い印象付けをし、勝者の良いイメージや大義名分を正当化するのは常套手段である。
ということで、「豊臣政権を悪い印象にしたのではないか?」と私は睨んでいる。
豊臣秀吉は政権を取り、安泰化したかったのに、わざわざ大切な2代目、甥っ子を殺すだろうか?親戚一族を処刑するだろうか?考えればわかるが、「弱体化」するのは馬鹿でも目に見えている。
なので、豊臣秀次は、秀吉に切腹させられたわけではない、というのが私の憶測。
切腹は自分の意志で、「身の潔白の証明」のためにやったのではないだろうか。豊臣秀吉の本意ではなかったのではないだろうか。
ところが、切腹してしまったので、やむを得ず、何らかの「隠蔽」や「印象操作」のために一族処刑という無惨な選択をしてしまったのではないだろうか。
この件を切っ掛けに豊臣政権は弱体化し、徳川家康が付け入る隙ができたことはその後の歴史により明らか。
いずれにせよ、歴史の定説通りではなく、豊臣秀次は、平和を願い、近江の街作りを行った名君だったと私は思う。
この辺りの新解釈は國學院大學教授の#矢部健太郎 氏の記事が大変参考になるのでご一読を。
今後も歴史研究により、様々な定説が変わることが予想される。
ちなみに、今回、豊臣秀次が弔われている菩提がこの八幡山にある、というのは、大崎くんの計らいで寄った近江八幡のバーのオバチャンから聞いた。ネットで調べた観光情報ではアクセスできなかったので、大変貴重な機会となった。有り難い。
八幡山へはロープウェイで10分ほどで着く。そこから観られる景色はなんともいえない美しさ。
歴史学習は、その「場」に行くと、「縁」ができ、思考が広く、深まるから面白い。